東華学校の開設(1886年 宮城英学校)は、新島襄の仙台の同志社分校設立の熱意と当時官立中学校が退廃
していた宮城県の事情に加えて、古くからの友人である富田鐡之助 (元仙台藩士、勝海舟門下生、後に二
代目日銀総裁、東京府知事 ) という優れた実力者が、新島襄の協力者であったことが大きいといえます。
新島襄と富田鐡之助は、1872年 ( 明治5年 ) 頃、富田がニューヨー
ク領事心得であった時に知り合い、以後二人は信頼関係を築いてい
ました。
教師スタッフは、京都同志社が送り込みました。
地元政財界が経営主体となる商議会を構成し、「半官半民」的中等
教育機関でした。
官立の中学校が退廃し廃校となる中で、東華学校は最優秀な中学校
として、宮城県の中学校教育に重要な役割を果たしました。
発起人 富田鐡之助、松倉恂 (仙台区長)
商議会 和達孚嘉 (県書記官)、大童信太夫、遠藤敬止 (七十七銀行) 他
理事長 松平正直 (県知事)
校 長 新島襄 (同志社)
副校長 市原盛宏 (同志社)
校長代理 和田正幾 (同志社)
幹 事 片桐清治 (同志社)
教 師 田中兎毛 (同志社) 他
宣教師 J.H.デフォレスト (アメリカン・ボード)
東華学校は、校是として「敬天愛人、独立自助」の文言が採られ、
講堂には、敬宇中村正直による「修実徳勿求虚栄」の扁額が掲げられました。
「 SEEK TRUTH AND DO GOOD 」(真理を求め善をなせ) の標語を本館玄関上に掲げて、新たな校
風の確立を目指しました。この標語は、現在も仙台二華中高校の建物に刻まれています。
河北新報を興した一力健治郎、小説家の真山青果、海軍大将から学習院長に就任した山梨勝之進、文
人の児玉花外などの逸材を輩出しました。
「東華学校」校名の由来
万葉歌人大伴家持の 「皇家の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く」
の和歌による。
「東華学校遺址碑」について
1932年10月、東華学校同窓生により学校跡地(日本たばこ産業株式会社敷地内)に建立。
2002年、日本たばこ産業株式会社仙台ビルの移転に伴い、同社のご厚意により、遺址碑を
現在地に移設。
同社の管理の下、今も歴史が伝えられています。
東華学校遺址碑 所在地 JT日本たばこ産業株式会社 内
( 仙台市地下鉄南北線 五橋駅 下車 )
「遺址碑」碑文
東華学校設立の趣意および新島襄等の設立者の氏名があり、「敬天愛人」「独立自助」を掲げ、
五百有余名が入学し、学風頗る盛んで、多くの人材を輩出したことが記されています。
さらに、廃校後四十余年、その遺跡が湮滅したことを、同窓の士が深く惜しみ、碑を建てるもの
であると刻まれています。
碑文は徳富蘇峯の撰によるもので
「SEEK TRUTH AND DO GOOD」と「榮虚求勿徳實修」と記されています。
碑の裏面には、教職者として同志社関係者11名、碑設立賛同者として同志社関係者10名の
名前が刻まれています。
太田雅夫著 「新島襄とその周辺」より 碑裏面は、横書きに修正したものです。
同志社所有の土地
仙台法務局が管理する仙台の旧土地台帳よれば、「片平丁七九番」および「南六軒丁六番一一」という
仙台内の旧地番に、宮城英学校の設立に尽力し、同校副校長を務め、新島裏校長に代わって事実上の学校
責任者となった市原盛宏が、1894年まで所有した土地が存在しました。
市原盛宏の次の不動産所有者は、同志社となっています。
(デフォレスト館の創建と明治期の履歴 東北大学大学院工学研究科 野村俊一准教授)