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仙台は、唯一の同志社分校のあった街です。
仙台の同志社分校は、1886年に開校した「東華学校」( 宮城英学校 )です。
新島襄は、かねてより東北仙台に同志社分校の設立を熱望しており、アメリカ在住時からの
友人富田鐡之助(元仙台藩士、勝海舟門下生、後に二代目日銀総裁、東京府知事)に相談し、協議を
重ねていました。
1886.5.29~6.3
新島襄、富田鐡之助の協力・支援を受け、仙台で松平正直宮城県知事らと、同志社分校
としての宮城英学校の設立について最終協議
1886.9.29 宮城英学校設立認可
1886.10.21 同志社分校の宮城英学校開校 ( 教職員等は同志社から派遣 )
1887.6.6 宮城英学校を東華学校と改称 ( 宮城県最優秀の中学校となる )
1887.6.17 新島襄、八重夫人を同伴し、仙台の東華学校開校式に臨む。
1892.3.24 新島襄没後、欧化主義に対する反動もあり、東華学校閉校。
生徒、教員、学校設備は、宮城県尋常中学校(現在の仙台一高)に編入される。
1932.10 東華学校同窓生等により、校舎跡地に「東華学校遺址碑」建立
2012.6 同志社校友会宮城県支部主催の「東華学校遺址碑」碑前祭実施
東華学校が同志社分校であることは、学説として定着しています。
「多賀城碑拓本と東華学校」
日本三古碑の一つに数えられる「多賀城碑」の拓本が、新島襄旧邸に屏風として残っている。
「多賀城碑」は、仙台市に隣接する多賀城市にあり、奈良時代中期に多賀城を修造したときの
記念碑であり、覆屋のなかに西を向いて建っている。
多賀城市にある東北歴史博物館では、2001年4月に「ふるきいしぶみ―多賀城碑と日本古代の碑」
特別展を開催した際、新島旧邸の多賀城碑拓本の屏風を借り受け展示した。
多賀城碑の拓本がなぜ新島襄旧邸にあるのかは、仙台に設立された宮城英学校のちの東華学校
との関連が想起される。
新島襄が同志社の一分校とみなしていた宮城英学校は、校長を新島襄が兼務し、市原盛弘が
副校長として派遣され、アメリカン・ボードの宣教師デフォレストが英語教師として赴任し、
スタッフも同志社関係者が多数を占めていた。
宮城英学校は、富田鉄之助(のちの日本銀行総裁)等が発起人となって、1886年10月に開校
したが、宮城県知事松平正直を会長とする東華義会が設置され、校名も、万葉歌人大伴家持の
「皇家の御代栄えむと東なる 陸奥山に黄金花咲く」の和歌から「東華学校」と改称された。
1887年6月17日に東華学校開校式が挙行され、校長新島襄も八重夫人同伴で式典に参加した。
東華学校の資料調査のなかで、この拓本は1875年(明治8年)に当時の宮城県令が、多賀城碑の
原碑から複数石櫂し宮城県知事室に保管されていたものを、東華学校開校式に出席した新島襄に、
松平正直知事が贈呈したものと推定されている。
現在、国立公文書館所蔵の多賀城碑の拓本と同時に石櫂されたもので、残存する拓本のなかでも
二番目に古い貴重な拓本といえる。
( 元桃山学院短期大学学長 太田 雅夫氏 論文より )
日本キリスト教団仙台北教会
1887年3月13日、東華学校の教職員・生徒により、「日本組合教会宮城教会」設立。
現在の日本キリスト教団仙台北教会です。
東華学校の精神が、仙台北教会により、現在に引き継がれています。
新島襄、八重ご夫妻も当教会で礼拝しています。
東華学校卒業生の一力健治郎 ( 河北新報創設者 ) は、当教会の受洗者第一号です。